04│2023年01月22日

岡山バプテスト教会


週 句 安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、滅ぼすことか。
聖書   ルカ 6章9節

説 教 「天の国と比べてみよう」 高橋周也牧師
聖書   マタイによる福音書25章14〜30節

「主人の高慢、3人目の僕の抵抗」
 イエス様の譬え話のことをパラボレーと言います。これは同じ「たとえばなし」でも「例え話」とは異なります。イエス様は特に天の国(神様の支配する領域)について語る時、この語り方を用いました。「天の国はこのようにたとえられる」英語のcompare(比較する)と同じような意味の単語ホモイオーが用いられており、「~のようだ」という意味の他に「~と比べられる」という翻訳が可能です。パラボレーの解釈は自由にきいた者たちに委ねられています。この語り方は、強大な帝国の支配下に生きる弱い者たちの武器(ささやかな抵抗)でした。
 今朝の説教箇所のパラボレーで、主人を神とし、僕らを信仰者と解釈するのは、資本主義経済下で非常に好まれてきた読み方で、私自身もその解釈に基づく説教しかきいたことがありません。しかしキリスト教の長い歴史のなかでは、必ずしも自明のことではないようです。預かった金をネコババするのはトンデモナイことです。それにもしかすると、このパラボレーに登場する主人は、自分自身で畑を耕したり汗水垂らして働いたりすることなく収穫を横取りし、金をかけないところからもかき集める。そして、金を貸すときには利子を取ってはいけないという旧約聖書のルールに反することにも抵抗がないようです。そんな風にして私腹を肥やすひどい人間だったのかもしれません。1人目と2人目の僕(=奴隷)は主人のやり方に乗っかって、主人の喜びを共にさせられます。ところが、3人目は主人のやり方に乗らず抵抗します。金は作物と違って、土に埋めても命を生み出しません。この人は「怠け者」「悪い僕」と断罪され、外の暗闇に放り出されます。そこには少数の富裕層が富を独占しているがために貧しくさせられた者たちが大勢いたはずなのです。