2022年10月2日

岡山バプテスト教会


週 句  上って行くがよい。神なる主がその者と共にいてくださるように。
聖書   歴代誌下 36章23節

説 教 「熟練した建築家のように生きる」高橋周也牧師
聖書   コリント一3:10-17

「『代々の聖徒』という言葉について」
  先週のみなカフェでこの言葉に注目してくださった方がありました。今朝の聖書は、ちょうどこのことを知るのにうってつけの箇所です。Iコリント3:16~17によれば、聖書を読む私たち一人ひとりが「聖なる神殿」だということになります。人を指して言っているのですから、これをもう少し普通に表現すれば聖なる「者」でしょう(私たちの礼拝で用いている新共同訳では、以前の翻訳で「聖徒」と訳した言葉について「聖なる者」と表現しています)。プロテスタント教会の立場で編纂された『キリスト教大辞典』などには、「信徒全てのこと」と解説されています。特に、バプテスト教会は万人祭司/万人信徒の教会です。ですから、すべての人が「聖徒」だということになります。(ややこしいのは、例えば英語では「聖人」も「SAINTS」であるということでしょうか。これはカトリック教会などが時々秀でた人を認定して、ときにお祈りの対象にすらしてしまうシステムのことで、私たちの理解とは違っています)。 
でも、私は「聖徒です」なんて恥ずかしくて言えないでしょうか?そんなことはないのです。なぜなら「聖」であることの根拠は、私たちが道徳的にとか信仰的に素晴らしいからではなくて、神様がご自分のものとしてくださったというところにあるからです。今、私たちのアイデンティティーとなっている「クリスチャン」や「バプテスト」等の言葉は、元々人の悪口だった言葉なのですが、「聖徒」だけは、「あなたが神様にとっては特別で大切」という神様由来の言葉なのです。「代々の」が付くと、さらにこのことが豊かになるのですが、文字数がいっぱいになってしまったので、それについてはまたの機会に譲ることにします。

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